デザイン・建築の深い闇 ― 2005年07月06日 20:43
デザインということばを、ちょっと表層的ではなく使おうとした途端、足元はずぶずぶとぬかるみにはまり込む。
私はかたちを考える面白さからデザインに興味を持ち始めた・・・デザインされたかたちの面白さが、もっと先か。だから一般的に使われている「デザインがいい」という言い方の時に、かたちの良さがまず忘れられることはないことは、都合がいい。
ただ、かたちのよいだけのものには、「デザインがいい」などとは、私自身は決して使わないつもりではある・・・ほんとうか。ちょっと自信はないが。だから、もし格好がいいだけのものをデザインがいいと称揚するようなひとと話すことがもしあれば、「でも、実用的じゃないよね」などと少しは難癖をつけてやりたいと思ったが、幸か不幸か、そんな場面はなかったようだ。そんな知り合いは、思いあたらない。
デザインするという言葉が、そのくらいには、かたちを美しくすることだけではないという感じは誰しも持っているかもしれない。ただ、かたちの美しさがやはり前面に出てしまいがちなことは否めない。そして、そのことにちょっとひっかかると、つい、美とはなにか、用の美とかなんとかしゃらくせえ、ああなにかくちはばったい、ということになる。
また、デザインということを考える時には、単に日常的なスケールだけでものを考え得ない、と、そんな事が引っかかってくる。逆に、非日常的なスケールだけでもだめだ。
実際にはデザインということを考えるひと、仕事にしているひとの多くはデザインの要素のごく限られた一面についてのみ注目し、たとえばつかいやすいものの美しさについて語りはするものの、そのことでかなり多くのこと、デザインに関連することすべてをを語ったような気持ちになっているようなことになる。不便で醜い優れたデザインもあるはずだ。それは醜いが美しいと言った逆説的な言い方では美しくなってしまいはするものの。
ひとつは、高価なものはそれだけでデザインとして劣っていると考えることができる場合がある。ある場合には流通過程、各流通過程での価格設定までをデザインしてようやく本質的なデザインの完了、と、いう事さえ可能だ。医薬品はいかに服用しやすい新技術等をもりこもうが、価格が高すぎるならデザインとして優れていることにはならないだろう。例えば、エイズ患者のための薬ほど、その意味でデザインの質の低いものはないともいえる。増え続けるエイズ患者が購入できる価格ではない。
現在の職能分担ではデザイナーの仕事ではない要素にもデザインは関わっている。製品の特性に見合ったパッケージを考えることくらいが、デザイナー、呼び方としてはグラフィックデザイナーにまかせられるくらいだが、それは一面だ。
建築について考えるとき、そのような意味でのデザインの最後進分野ともいえる深大な闇を見つけることができる。
いつからか、日本の住宅は高価で使いにくく、醜い。家を建てると言うことは、また、自然破壊に寄与することでもある。流通に関しても、選択する技術に関しても、自然との関わり方にしても、現代の科学水準からして不合理極まりないだろう。その程度もつい最近まで悪化し続けてきた一分野だったのではないか。なんらかの技術革新はそれが利益を増大させる場合にのみ採用され、安価で機能的なものは退けられてきたのではないかという懸念すらある。
価格に関していえば、生活費の大きな割合を占めるほどに高価な住宅を手に入れるための労働というのは、はたして合理的な選択なのかという疑いがある。創造性を発揮しつづける仕事は楽しいだろう。それによって大きな利益を生み、高価な住宅に投資するのはいいだろう。実際には創造性を摩耗させる種の仕事が多い。おおくの仕事をそうでなくする試みが、ないわけではないが、それが成功しているとは思えない。そのような仕事をよりよく進めるために、実は爆発的ではないにしても、創造性が求められるのでははないか。そのための余暇を、生活の中に取り入れるに相応しい、日本の家だろうか。
日本の家の価格にはどれほどの、そしてどのような種類の必然性があるのだろう。
・・・乱暴な論だ。根拠は例示できない。曖昧な記憶から直感的に導き出した言葉だ。ただ、言い過ぎの部分はあるにしても、この手の不合理が放置され、あるいは困難な問題として近づきがたいこととされていることは事実ではないかと思う。建築家は、このような問題に近づく時に闇を見るのではないか。この闇を正面から見ることは世間をひっくり返すような天才でなければ無駄なことかもしれない。それを少なくとも横目に見つつ、優れた仕事をしている人もいるだろう。
ただ、変な話しだが、これらは日本に顕著な話しだと思う。政治と、文化的な問題が関わってくる。「産業界」とやらのことをとりあえず忘れたいが、そうしては話が進まないかも知れない。
と、美術家であろうとする人間が考えることにどれ程の意味があるのか知らないが。
私はかたちを考える面白さからデザインに興味を持ち始めた・・・デザインされたかたちの面白さが、もっと先か。だから一般的に使われている「デザインがいい」という言い方の時に、かたちの良さがまず忘れられることはないことは、都合がいい。
ただ、かたちのよいだけのものには、「デザインがいい」などとは、私自身は決して使わないつもりではある・・・ほんとうか。ちょっと自信はないが。だから、もし格好がいいだけのものをデザインがいいと称揚するようなひとと話すことがもしあれば、「でも、実用的じゃないよね」などと少しは難癖をつけてやりたいと思ったが、幸か不幸か、そんな場面はなかったようだ。そんな知り合いは、思いあたらない。
デザインするという言葉が、そのくらいには、かたちを美しくすることだけではないという感じは誰しも持っているかもしれない。ただ、かたちの美しさがやはり前面に出てしまいがちなことは否めない。そして、そのことにちょっとひっかかると、つい、美とはなにか、用の美とかなんとかしゃらくせえ、ああなにかくちはばったい、ということになる。
また、デザインということを考える時には、単に日常的なスケールだけでものを考え得ない、と、そんな事が引っかかってくる。逆に、非日常的なスケールだけでもだめだ。
実際にはデザインということを考えるひと、仕事にしているひとの多くはデザインの要素のごく限られた一面についてのみ注目し、たとえばつかいやすいものの美しさについて語りはするものの、そのことでかなり多くのこと、デザインに関連することすべてをを語ったような気持ちになっているようなことになる。不便で醜い優れたデザインもあるはずだ。それは醜いが美しいと言った逆説的な言い方では美しくなってしまいはするものの。
ひとつは、高価なものはそれだけでデザインとして劣っていると考えることができる場合がある。ある場合には流通過程、各流通過程での価格設定までをデザインしてようやく本質的なデザインの完了、と、いう事さえ可能だ。医薬品はいかに服用しやすい新技術等をもりこもうが、価格が高すぎるならデザインとして優れていることにはならないだろう。例えば、エイズ患者のための薬ほど、その意味でデザインの質の低いものはないともいえる。増え続けるエイズ患者が購入できる価格ではない。
現在の職能分担ではデザイナーの仕事ではない要素にもデザインは関わっている。製品の特性に見合ったパッケージを考えることくらいが、デザイナー、呼び方としてはグラフィックデザイナーにまかせられるくらいだが、それは一面だ。
建築について考えるとき、そのような意味でのデザインの最後進分野ともいえる深大な闇を見つけることができる。
いつからか、日本の住宅は高価で使いにくく、醜い。家を建てると言うことは、また、自然破壊に寄与することでもある。流通に関しても、選択する技術に関しても、自然との関わり方にしても、現代の科学水準からして不合理極まりないだろう。その程度もつい最近まで悪化し続けてきた一分野だったのではないか。なんらかの技術革新はそれが利益を増大させる場合にのみ採用され、安価で機能的なものは退けられてきたのではないかという懸念すらある。
価格に関していえば、生活費の大きな割合を占めるほどに高価な住宅を手に入れるための労働というのは、はたして合理的な選択なのかという疑いがある。創造性を発揮しつづける仕事は楽しいだろう。それによって大きな利益を生み、高価な住宅に投資するのはいいだろう。実際には創造性を摩耗させる種の仕事が多い。おおくの仕事をそうでなくする試みが、ないわけではないが、それが成功しているとは思えない。そのような仕事をよりよく進めるために、実は爆発的ではないにしても、創造性が求められるのでははないか。そのための余暇を、生活の中に取り入れるに相応しい、日本の家だろうか。
日本の家の価格にはどれほどの、そしてどのような種類の必然性があるのだろう。
・・・乱暴な論だ。根拠は例示できない。曖昧な記憶から直感的に導き出した言葉だ。ただ、言い過ぎの部分はあるにしても、この手の不合理が放置され、あるいは困難な問題として近づきがたいこととされていることは事実ではないかと思う。建築家は、このような問題に近づく時に闇を見るのではないか。この闇を正面から見ることは世間をひっくり返すような天才でなければ無駄なことかもしれない。それを少なくとも横目に見つつ、優れた仕事をしている人もいるだろう。
ただ、変な話しだが、これらは日本に顕著な話しだと思う。政治と、文化的な問題が関わってくる。「産業界」とやらのことをとりあえず忘れたいが、そうしては話が進まないかも知れない。
と、美術家であろうとする人間が考えることにどれ程の意味があるのか知らないが。
自動車のかたち2 ― 2005年06月27日 23:18
もはや自動車は世の中にとってそんなにいいものではない。
日本の自動車が世界を席巻しているのは、日本車がいい物であるからだが、いいもののわりには安いからだろう。人件費は安くないのに製品は安い。これは薄利多売と、ほかにもなにかあるだろう。
最近はともかくちょっと前まではデザインが古かった。
ルキノという日産の中古車がウソのように安かったので今も乗っているのだが、最初は嫌いだった。そのうちデザイン自体はそんなに悪くない気がしたのだが、サニーと何一つ違いはない。たとえばレビンとかトレノは、サニーとルキノの違いに比べると、カローラやスプリンターとは全く違う車と言ってもいい。ルキノという車名はなにか姑息な(言葉が合っていない気がするが、どうにも使いたい)気がする。
「デザイン自体はそんなに悪くない」と、思ったのはBMWと共通する良さがある気がしたのだ。私の物はクーペ?のほうだ。ハッチバック?のモデルのデザインはひどいぞ。オリジナリティは欠如しているが、かたちはそれなりにまとまっている。所詮ものまねだが、悪い形でもないかと思う。
トヨタの車は実はそんなパクリ感のある物は少ない。でもクラウンはベンツに近いかな。しかしトヨタの車には造型としてぎくしゃくしている者が多い。ひどいねシエンタ。そうでなければ、おもちゃっぽい。Bbなど。ただ、ヴィッツは初期モデルもいまのものもすごくいい。フィットよりかっこいいと思う。コルトよりもいいかな。デミオとはいい勝負だと思うけれど、そうなれば売れた物勝ち。ただ、室内までは今のところ私は気にしていない。買うことになると、室内デザインの違いが勝負を決めそうだ。ただ、燃費が良いかどうかに差があればまた別。
日産の今のデザインは造形的に進歩している。が、パクリ感は否めない。フランスの匂い。ルノー系列だからしょうがない?ステージアにはボルボの匂い。日本のデザイン室でやっているんだよね。旧スカイラインにはあったオリジナリティはない。ただZまで完成度が高いと、お買い得感があるな。
と、いうわけで私が最も評価しているのはホンダだ。特にミニバン、特にステップワゴンとモビリオ。ステップワゴンの新モデルには期待した。いい仕事はしている。あたらしい。ただ、日産のようなあからさまなパクリではないが、ちょっと個性は薄まったかなと思う。造形的にはちゃんと、面白く、優れているし、進歩していると言ってもいい。ただ、ステップワゴンとモビリオを評価していたのはそのなにかさりげないたたずまいだったので、今は世界的に面白いデザインの車が溢れているのだから、逆に
それに迎合したように思える。ステップワゴンとモビリオには、たとえばホンダの四輪車の最も世界に誇るべき名デザインだったと思える初代シビックの発想が甦っていたと思えたのだ。いまやそれをパクったゴルフに完全におはちを、というかコンセプトの継承の地位を奪われたが・・・と、いってもシビック自体がVWビートルの発想を遙かに優れたかたちで実現したと言える物でもあったが。歴代オデッセイもそういう感じはあったし、優れているとは思うが、いかんせんかたちが私にはダメだった。顔の部品が真ん中に集まりすぎたドラえもんの似顔絵みたいな印象。そこからの変化はセンセーションなスタイルの新型オデッセイはかたちの面白さは以前の物より好きだが、「オデッセイ」というコンセプトをかたちで表している点では個性は減退したとも思える。「オデッセイ」のコンセプトは進化していると思うが。微妙だ。とはいえ日本の自動車デザインでは私はホンダを最も評価している。
マツダのデザインは、好きだ。「Boom Boom」というコピーも好きだ。好きだがコンセプトはホンダほどユニークではないと思う。かたちもオリジナリティがあると思う。ただし、ドイツとフランスのデザインのいいとこ取りという感じもしないでもない。ただし、造形力では日本のメーカーでは一番だと思う。
このように車は好きだ。販売店の売り方よりもデザインやコンセプトの優れた物が売れる傾向になっている気がするのだが、本当にそうならいい傾向だと思う。売り方がコンセプトを重視してきていると言えるかも知れないし。ただ、内燃機関を主動力とした自家用自動車というコンセプト自体がもう手遅れだ。ミニバンはファミリーユース、ホビーユースとして認められる。。ただし、自動車の耐久性、走行距離に対してではなく経年変化についての耐久性が必要だが、それも進歩しているはずだ。コンパクトカーも最近の物は充分そういう位置づけができるし、ある程度用途を限定すると最近のものは以前のミニバン以上に優れている部分もある。ただ、ファミリーユースとしても、ホビーユースとしてもデザインとしては中途半端だ。「ふだんのお買い物」に使うならいいのだけれど、そうした使い方は通勤用途ほどではないかもしれないが地球にやさしくはない。
すくなくとも通勤目的のようなつかいかたは大部分でやめるべきだ。通勤用時間帯の自動車のトラフィックは自家用による通勤を排除するとものすごく合理的になる。それで、余暇が増えるはずだ。自分の時間を手に入れることを、考えるべきだ。
日本の自動車が世界を席巻しているのは、日本車がいい物であるからだが、いいもののわりには安いからだろう。人件費は安くないのに製品は安い。これは薄利多売と、ほかにもなにかあるだろう。
最近はともかくちょっと前まではデザインが古かった。
ルキノという日産の中古車がウソのように安かったので今も乗っているのだが、最初は嫌いだった。そのうちデザイン自体はそんなに悪くない気がしたのだが、サニーと何一つ違いはない。たとえばレビンとかトレノは、サニーとルキノの違いに比べると、カローラやスプリンターとは全く違う車と言ってもいい。ルキノという車名はなにか姑息な(言葉が合っていない気がするが、どうにも使いたい)気がする。
「デザイン自体はそんなに悪くない」と、思ったのはBMWと共通する良さがある気がしたのだ。私の物はクーペ?のほうだ。ハッチバック?のモデルのデザインはひどいぞ。オリジナリティは欠如しているが、かたちはそれなりにまとまっている。所詮ものまねだが、悪い形でもないかと思う。
トヨタの車は実はそんなパクリ感のある物は少ない。でもクラウンはベンツに近いかな。しかしトヨタの車には造型としてぎくしゃくしている者が多い。ひどいねシエンタ。そうでなければ、おもちゃっぽい。Bbなど。ただ、ヴィッツは初期モデルもいまのものもすごくいい。フィットよりかっこいいと思う。コルトよりもいいかな。デミオとはいい勝負だと思うけれど、そうなれば売れた物勝ち。ただ、室内までは今のところ私は気にしていない。買うことになると、室内デザインの違いが勝負を決めそうだ。ただ、燃費が良いかどうかに差があればまた別。
日産の今のデザインは造形的に進歩している。が、パクリ感は否めない。フランスの匂い。ルノー系列だからしょうがない?ステージアにはボルボの匂い。日本のデザイン室でやっているんだよね。旧スカイラインにはあったオリジナリティはない。ただZまで完成度が高いと、お買い得感があるな。
と、いうわけで私が最も評価しているのはホンダだ。特にミニバン、特にステップワゴンとモビリオ。ステップワゴンの新モデルには期待した。いい仕事はしている。あたらしい。ただ、日産のようなあからさまなパクリではないが、ちょっと個性は薄まったかなと思う。造形的にはちゃんと、面白く、優れているし、進歩していると言ってもいい。ただ、ステップワゴンとモビリオを評価していたのはそのなにかさりげないたたずまいだったので、今は世界的に面白いデザインの車が溢れているのだから、逆に
それに迎合したように思える。ステップワゴンとモビリオには、たとえばホンダの四輪車の最も世界に誇るべき名デザインだったと思える初代シビックの発想が甦っていたと思えたのだ。いまやそれをパクったゴルフに完全におはちを、というかコンセプトの継承の地位を奪われたが・・・と、いってもシビック自体がVWビートルの発想を遙かに優れたかたちで実現したと言える物でもあったが。歴代オデッセイもそういう感じはあったし、優れているとは思うが、いかんせんかたちが私にはダメだった。顔の部品が真ん中に集まりすぎたドラえもんの似顔絵みたいな印象。そこからの変化はセンセーションなスタイルの新型オデッセイはかたちの面白さは以前の物より好きだが、「オデッセイ」というコンセプトをかたちで表している点では個性は減退したとも思える。「オデッセイ」のコンセプトは進化していると思うが。微妙だ。とはいえ日本の自動車デザインでは私はホンダを最も評価している。
マツダのデザインは、好きだ。「Boom Boom」というコピーも好きだ。好きだがコンセプトはホンダほどユニークではないと思う。かたちもオリジナリティがあると思う。ただし、ドイツとフランスのデザインのいいとこ取りという感じもしないでもない。ただし、造形力では日本のメーカーでは一番だと思う。
このように車は好きだ。販売店の売り方よりもデザインやコンセプトの優れた物が売れる傾向になっている気がするのだが、本当にそうならいい傾向だと思う。売り方がコンセプトを重視してきていると言えるかも知れないし。ただ、内燃機関を主動力とした自家用自動車というコンセプト自体がもう手遅れだ。ミニバンはファミリーユース、ホビーユースとして認められる。。ただし、自動車の耐久性、走行距離に対してではなく経年変化についての耐久性が必要だが、それも進歩しているはずだ。コンパクトカーも最近の物は充分そういう位置づけができるし、ある程度用途を限定すると最近のものは以前のミニバン以上に優れている部分もある。ただ、ファミリーユースとしても、ホビーユースとしてもデザインとしては中途半端だ。「ふだんのお買い物」に使うならいいのだけれど、そうした使い方は通勤用途ほどではないかもしれないが地球にやさしくはない。
すくなくとも通勤目的のようなつかいかたは大部分でやめるべきだ。通勤用時間帯の自動車のトラフィックは自家用による通勤を排除するとものすごく合理的になる。それで、余暇が増えるはずだ。自分の時間を手に入れることを、考えるべきだ。
自動車のかたち ― 2005年05月19日 14:22
今日歩いていて、スズキの「アルト」と、トヨタの「パッソ」という車が同じ駐車場に停まっているのを見て、互いに似ていて、どちらもなんか嫌だなあと思う。どちらも今の、新しいモデルだと思う。この嫌な感じは何だろう。
あまり嫌でないのはトヨタでは「ビッツ」。トヨタの車のかたちは全般的にあまり好きではない。会社として好きな形が多いのはマツダとホンダかもしれない。
考えてみると車の形を作るのは、彫刻に近い。量感もあり、自由度もそれなりにあるように思える。つくっているひとも、「かたち」が好きなことでは彫刻をやるひとと似ていて、能力的にも近い部分はあるかなと、思う。私もむかしスーパーカーの形が好きだったなあ。こうした工業デザインは、また、現代彫刻にどんどん影響を与えてもいると思う。車のようなものを好きな人にも、もしかしたら嫌いな人にも。
いやでも彫刻と自動車のデザインはずいぶんちがうか。
あまり嫌でないのはトヨタでは「ビッツ」。トヨタの車のかたちは全般的にあまり好きではない。会社として好きな形が多いのはマツダとホンダかもしれない。
考えてみると車の形を作るのは、彫刻に近い。量感もあり、自由度もそれなりにあるように思える。つくっているひとも、「かたち」が好きなことでは彫刻をやるひとと似ていて、能力的にも近い部分はあるかなと、思う。私もむかしスーパーカーの形が好きだったなあ。こうした工業デザインは、また、現代彫刻にどんどん影響を与えてもいると思う。車のようなものを好きな人にも、もしかしたら嫌いな人にも。
いやでも彫刻と自動車のデザインはずいぶんちがうか。
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