デジカメ故障中/雲/電線のない鉄塔2006年07月01日 14:35

デジカメは、オリンパスの日常生活用防水のちょっと前のモデルを使っている。
自動開閉するレンズのフタが、結構大きめでボディーと同じ面にあり、つまりへこんでいない。そのためもあるだろうし、私の扱いが乱暴なせいもあるだろう、故障した。ついうっかり鍵と一緒にポケットに入れてしまい、それもちょっとの間だったのにフタが少しへこんで、しばらく開閉の調子が悪く、1、2ヶ月すると動作しなくなった。と、いうのが、買って半年くらいと、さらにそれから3ヶ月目と、その2回目の修理中だ。

デジカメを買ってからは、ほとんど常に持ち歩き、目に映るおもしろいものをなんでも撮っていた。フィルム時代には考えられなかった多量の枚数がハードディスクに保存してある。見ることがどれだけあるかは疑問だが。フィルムによる写真に比べてデジカメの絵は感じが違うなどという説も

修理でカメラがなくなった頃に、微妙に身辺に変化があり、季節が変わり、カメラが手元にないことにそれほど違和感がないことに気づいた。しばらく雨が続いて歩いて外出するのもままならなかったし。3ヶ月前には、あれも、これも、写したいのに、と、思っていたのに。

そのうち、「これは見物だ」と思われる風景をいくつか目にした。

ひとつは、2日間にわたっていたのだけれど、見事な夕景。
今日も雲はおもしろいのだけれどまだ昼だし、天気が良すぎる。昨日と一昨日の夕焼け雲はあまり見たことのないようなものだった。高い雲の柔らかいハケで描いたようなグラデーションと、その下の低い雲との対比がパノラミックな立体感で迫る。濃い赤も鮮やかで、見事だった。あれも反射した光の色というべきなのか、よくわからないが、身近な物体に光があたって見える色とは違う。アニメーションでいえば透過光の特殊効果を使ったようなものだと、妙なたとえを思いついた。光の3原色と、絵の具の3原色の違い・・・。

もうひとつは対照的に、小さな山の上の、単なる高圧電線の鉄塔の、古くてあまり大きくないものから、電線が外されてあるのを見たのだ。1週間ほど前に散歩して見つけたのを、今日は今年初めてなんとなく自転車で出かけたのだが、出かけてすぐ思い出し、見に行った。そういえばまだあるかなと。
ほかのものよりも黒っぽい色なのは、錆びたためか、塗装のちがいのためか、どちらにしても一見して、すぐ近くにあるもう少し大きな鉄塔よりも古いということはわかり、電線が外されて、鉄塔が建つ山のふもとには作業車入口の小さな看板が立ち、取り壊されるまで日はなさそうだ。
鉄塔は続いていて、たどってほかにもいくつか見つけたが、木々に隠れてよく見えない。自転車を降りて山を登るにも、あやしい人と思われそうだ。そういうわけもあってか、最初に見たものが、最も味わい深かった。

その電線が外された鉄塔は平地にもあったが、帰りには近くを通ったというのに、「変電所の近くの赤いタンポポの群生」があるというのに気をとられて見るのを忘れた。
これも、ほかのふたつほどではないがそこそこおもしろい。教えられなければタンポポだとはわからないが、町の新聞に出ていたのだ。花のすぐ下で枝分かれしていて、いくつもくっついて花をつけている。丈も高い。赤というよりはオレンジっぽいが、しかし、以前こちらのほうに住んでいた頃に見たような覚えもある。

カメラがなくて惜しかったような気もするが、カメラがなくて良かったような気もする。写真に写ったものは写ったものであり、実際に見たものは違う。カメラがあると、見方が変わってしまうようでもあり、何でも撮りたいとなればなおのことだろう。
しかし、カメラが帰ってきたならまた何でも撮るだろう。
あと、鉄塔は、なくなってしまったら、惜しいな。

モチーフ(改)2006年05月27日 13:11

モチーフということばを、つかったことも、思い浮かんだことさえ、ほとんどなかった。美術を始めて20年以上になるのに。

自分が抽象的な表現を志向しているからかもしれないと思ったが、わからない。
抽象ということでは、山下裕二さんという人(美術評論家?応援団?)が具象にしか興味がないというようなことを書いてあるのを読んだときに、それがなにか正しいように思えたことがあった。
その少し前からモチーフということばが以前より意味のある言葉に思えてきていた。日本画の千住博氏の新書版の本で、モチーフについて書かれているのを読んでからだ。モチーフというのは静物の絵を描く時に並べるときにだけつかう言葉ではない、と、いう、当たり前のことに気付いたのだが。
山下氏はある種抽象的な表現をも、優れているものは具象として興味を持つというようなことを書いていたような気がする。モチーフってなんだ。なにかを対象化するときの対象なのか?そういうモチーフがあれば、具象?
具象か抽象かということではよくわからないが、「対象を持たない」絵画なり美術なり表現なりの芸術運動かなにかがあったような気がした。もしそういうことがあるならそれにはモチーフがないということになるのだろうか。わからない。
などと書きながら、具象を志向するようになろうと思うわけでもなく、モチーフという言葉を重視するようになったわけでもない。

ふと、音楽でもモチーフということがあると気付いた。美術とは随分違うようでもある。
音楽のモチーフは「動機」だったっけ。
千住さんの弟は作曲家だな、などと、ふと、思ったが、それは関係がない。

葛藤があるのかな2005年10月27日 21:22

アイデアが幾つも浮かぶが、それらの方向性が矛盾しあい、なかなか作成を始められない原因になっているかも知れないと、考えた。
ひとつはミニマル的な傾向。またはこんなモノも彫刻と言っていいかも知れない、というようなモノ。独自のアイデアではなく、いろいろな作家への共感からこういうことをしたい。が、気持ちではこういう方向性で行きたいが、作品として自立しないアイデアが多い気がする。
もうひとつは彫刻的な傾向。形体が見るものにアピールする。具体的な何物かをモチーフにして形が生まれ、それがモチーフに近く写実的であったり、モチーフから離れ抽象的であったりするかも知れない。これは伝統的な彫刻かもしれない。完全な抽象形態もここに入ることは出来る。これはある種ルーティーンになってしまう気がする。

なんて、実はたぶん矛盾しないのだ。このふたつを兼ね備えて面白い物になるのだろう。しかしなかなかうまく行かないだけなのだろう。

モチーフ2005年08月01日 21:32

モチーフということばを、つかったことも、思い浮かんだことさえ、ほとんどない。美術を初めて20年になるのに。
自分が抽象的な表現を志向しているからかもしれない。抽象ということでは、山下裕二氏という人(美術評論家?応援団?)が具象にしか興味がないというようなことを書いてあるのを最近ちらっと読んで、ああなんかそうかもしれないと思ったことがあったが。
最近モチーフということばが少し意味のある言葉に思えたのは、日本画の千住博氏の新書版の本でモチーフについて書かれているのを読んでからだ。このひとはモチーフを重視しているようだ。
山下氏はある種抽象的な表現をも、優れているものは具象として興味を持つというようなことを書いていたような気がする。モチーフってなんだ。なにかを対象化した、なにかなのか?そういうモチーフがあれば、具象?
などと書きながら、具象を志向するようになろうと思うわけでもなく、モチーフという言葉を重視するようになったわけでもない。ただ、ふと、音楽でもモチーフということがあると、ふと気付いて、かえってなんだかわからなくなったが、なぜかすこし合点がいった。
ただ、とりあえずそこまでで、今は、音楽のモチーフって、主題とかいっていたと思うけれど、それを確かめるつもりはない。が、音楽の「主題」って、美術のそれとはちがうよなとか、思うだけだ。・・・音楽の「モチーフ」って、「動機」だったっけ。
千住さんの弟は作曲家だな、などと、ふと、思ったが、それは関係がない。

テクニック2005年07月16日 23:54

テクニックとはなんだろう。
あまり意味があるものではない気もするが、これがないとものができない。
絵についていえば絵がうまいとか、デッサン力があるとか、かなり決定的にテクニックは重要視されるのがまあ、ふつうだろう。普通に見たうまさとちょっと違ううまさがあったりするが、まあそれもうまさ。

うまいほうがいいかな。
わたしはわたしのいた大学ではまあまあうまい方だった。絵もそこそこ描けた。私のいたのは美大というほどではなかったし。と、周囲と比較してどうのこうのと、考えるべきものでもないし、比べていたわけではなく、「こんなひとがいるなら自分はやめたほうがいい」とか思わずに済んだだけだ。なんだろう、それでいいことは、ちょっと安心できたかな、ということだろうか。
あと、あまり意味があるものではない気もすると書いたのだが、私はうまい方が好きだ。自分を棚に上げて。ただ、たとえばバスキアをうまいと思わない人とは、この段落に関してはとりあえず話しにならない。

千住博という世界的に有名な日本画家は、内容とモチーフ、それに描画方法までがぴったり合うという体験を「千住博の美術の授業」シリーズ2冊「絵を描く悦び」「美は時を超える」(どちらも光文社新書)のどちらかか、両方で書いていた。ああ、なるほど、そういうこともあるのかもしれない。

私には実はアイデアとテクニックはある。それらがすぐれたものではないかも知れないが、それなりに気に入っている。しかしそれで作品は出来るものか?私の作っているのは作品か?