芸術と才能2005年06月01日 05:21

才能ということについては複雑な気持ちがある。これを重視したくはない。しかし、私が美術を専攻しようと思ったのは自分の才能が美術に向いていると思ったからだった。
受験で試したが、あまり才能の試金石と言えるような試験ではなかった。入学でき、在学中に「それなりの才能はある」と、おごる程度の評価は受けた。しかし私と同じように、あるいはもっと才能があっただろうひとにも美術の作家的な活動をやめているひとはいくらでもいる。
なぜ続けているかという点では、自分に才能があるからではない。その才能とやらの限界もけっこうわかってきたせいもある。また、いま「続けている」と書いたが、ちゃんと続けていると言えるほどのことをしているかどうかもあやしい。
しかしまた、まだ才能などという言葉のまわりを意識がぐるぐるまわっている事にも気付く。

私は未だに間違っている。ここまでの文のなかで私は才能とやらを試験で測れる物のようにとらえていたりする。そもそも才能などということを問題にしないことのほうが正しい。ただ、そう簡単に片付きもしないと思ってこうしてぶつぶつ書いている。

彫刻を作る22005年06月09日 21:45

今日は久しぶりに展覧会用に作品を作ろうとあがいた。1時間弱。

「組み立て式の彫刻」がいいな、などと思っていたが、それはそこそこたいへん。ふつうにつくるよりひと手間多くなるとも思える。どうもうまく時間も頭脳も使えないので、あがくときには不向き。
もうひとつ、「ありあわせの材料で」作りたいという気持ちがある。うちのうらには廃材やら、庭木を切ってしまった物や、鉄板が錆びてしまったなれのはてなど、お気に入りかつあり合わせの物があり、それを右にやったり左にやったり、重ねたり組み合わせたりしてみた。これは、「組み立て式」というよりは「仮置きの」彫刻だ。
「インスタレーション」という言葉があるが気に入らない。仮設であること、または一時的なものであること、展示スタイルを作品のジャンルのように誇示しているようだ。「インスタレーション的な彫刻」「インスタレーション的な立体造型」とか言えばいいのに。違うか。やっぱり変か。
この件に関しては置いておく。
また、このように「インスタレーション」という言葉を自分で使う事には抵抗があるが、「インスタレーション」的な作品が実はけっこう好きだったりしてややこしい。

今日のあがき方はいつもとちがった。
かたちのアイデアが先行していて、あとから材質を考えることが多い、近年のいつもの私のやりかたと正反対のようにちがう。そのいつものやりかたでは、実は全くと言っていいほど苦労しない。うかばなかったらつくらなければいいし、余るほどアイデアはある。ただし、良いアイデアではない場合がほとんどだが。どれをつくるかで困るけれど、たいしたことはない。
それよりはどうしていいかわからなかったが、と、いっても、私の今日のあがきは、ふつうのひとからすると、やる気のないでたらめのようなことだ。

しかし、成果はあった。いつものようなものは作れない。しかし全く違う「インスタレーション的な彫刻」あるいは、「ただものをでたらめに置いてあるだけ」が、自分にとってそれなりに心地よかった。

彫刻をつくる32005年06月15日 00:34

才能のはなしとも通じるのだが・・・。
今日(日付上は昨日)の昼に9日にならべたものや、いろいろ雑然と置いてあるガラクタを眺めつつ「これを作品として展覧会に出したいな」と、思った。しかし出さない。
これを出してしまうと、出していい物とそれ以外の区別が付かなくなるのだ。
才能のはなしとも通じるというのは、そのときに考えたことだ。なにかやったことがすべて作品のようになるような才能。私はさすがに違うだろう。そんな才能が実は私にあると仮定してさえ、現実は別問題だ。こわい。

電信柱2005年06月15日 00:39

また変なカテゴリー。

電信柱は実は真っ直ぐ立っていないということに気付いてから、折に触れて気になっている。去年か一昨年か。
とりあえずはそれだけ。

自動車のかたち22005年06月27日 23:18

もはや自動車は世の中にとってそんなにいいものではない。
日本の自動車が世界を席巻しているのは、日本車がいい物であるからだが、いいもののわりには安いからだろう。人件費は安くないのに製品は安い。これは薄利多売と、ほかにもなにかあるだろう。

最近はともかくちょっと前まではデザインが古かった。
ルキノという日産の中古車がウソのように安かったので今も乗っているのだが、最初は嫌いだった。そのうちデザイン自体はそんなに悪くない気がしたのだが、サニーと何一つ違いはない。たとえばレビンとかトレノは、サニーとルキノの違いに比べると、カローラやスプリンターとは全く違う車と言ってもいい。ルキノという車名はなにか姑息な(言葉が合っていない気がするが、どうにも使いたい)気がする。
「デザイン自体はそんなに悪くない」と、思ったのはBMWと共通する良さがある気がしたのだ。私の物はクーペ?のほうだ。ハッチバック?のモデルのデザインはひどいぞ。オリジナリティは欠如しているが、かたちはそれなりにまとまっている。所詮ものまねだが、悪い形でもないかと思う。
トヨタの車は実はそんなパクリ感のある物は少ない。でもクラウンはベンツに近いかな。しかしトヨタの車には造型としてぎくしゃくしている者が多い。ひどいねシエンタ。そうでなければ、おもちゃっぽい。Bbなど。ただ、ヴィッツは初期モデルもいまのものもすごくいい。フィットよりかっこいいと思う。コルトよりもいいかな。デミオとはいい勝負だと思うけれど、そうなれば売れた物勝ち。ただ、室内までは今のところ私は気にしていない。買うことになると、室内デザインの違いが勝負を決めそうだ。ただ、燃費が良いかどうかに差があればまた別。
日産の今のデザインは造形的に進歩している。が、パクリ感は否めない。フランスの匂い。ルノー系列だからしょうがない?ステージアにはボルボの匂い。日本のデザイン室でやっているんだよね。旧スカイラインにはあったオリジナリティはない。ただZまで完成度が高いと、お買い得感があるな。
と、いうわけで私が最も評価しているのはホンダだ。特にミニバン、特にステップワゴンとモビリオ。ステップワゴンの新モデルには期待した。いい仕事はしている。あたらしい。ただ、日産のようなあからさまなパクリではないが、ちょっと個性は薄まったかなと思う。造形的にはちゃんと、面白く、優れているし、進歩していると言ってもいい。ただ、ステップワゴンとモビリオを評価していたのはそのなにかさりげないたたずまいだったので、今は世界的に面白いデザインの車が溢れているのだから、逆に
それに迎合したように思える。ステップワゴンとモビリオには、たとえばホンダの四輪車の最も世界に誇るべき名デザインだったと思える初代シビックの発想が甦っていたと思えたのだ。いまやそれをパクったゴルフに完全におはちを、というかコンセプトの継承の地位を奪われたが・・・と、いってもシビック自体がVWビートルの発想を遙かに優れたかたちで実現したと言える物でもあったが。歴代オデッセイもそういう感じはあったし、優れているとは思うが、いかんせんかたちが私にはダメだった。顔の部品が真ん中に集まりすぎたドラえもんの似顔絵みたいな印象。そこからの変化はセンセーションなスタイルの新型オデッセイはかたちの面白さは以前の物より好きだが、「オデッセイ」というコンセプトをかたちで表している点では個性は減退したとも思える。「オデッセイ」のコンセプトは進化していると思うが。微妙だ。とはいえ日本の自動車デザインでは私はホンダを最も評価している。
マツダのデザインは、好きだ。「Boom Boom」というコピーも好きだ。好きだがコンセプトはホンダほどユニークではないと思う。かたちもオリジナリティがあると思う。ただし、ドイツとフランスのデザインのいいとこ取りという感じもしないでもない。ただし、造形力では日本のメーカーでは一番だと思う。

このように車は好きだ。販売店の売り方よりもデザインやコンセプトの優れた物が売れる傾向になっている気がするのだが、本当にそうならいい傾向だと思う。売り方がコンセプトを重視してきていると言えるかも知れないし。ただ、内燃機関を主動力とした自家用自動車というコンセプト自体がもう手遅れだ。ミニバンはファミリーユース、ホビーユースとして認められる。。ただし、自動車の耐久性、走行距離に対してではなく経年変化についての耐久性が必要だが、それも進歩しているはずだ。コンパクトカーも最近の物は充分そういう位置づけができるし、ある程度用途を限定すると最近のものは以前のミニバン以上に優れている部分もある。ただ、ファミリーユースとしても、ホビーユースとしてもデザインとしては中途半端だ。「ふだんのお買い物」に使うならいいのだけれど、そうした使い方は通勤用途ほどではないかもしれないが地球にやさしくはない。
すくなくとも通勤目的のようなつかいかたは大部分でやめるべきだ。通勤用時間帯の自動車のトラフィックは自家用による通勤を排除するとものすごく合理的になる。それで、余暇が増えるはずだ。自分の時間を手に入れることを、考えるべきだ。