彫刻をつくる4 ― 2005年07月02日 14:57
今週、ほぼ3ヶ月ぶりに、それなりに彫刻制作にとり組むことができた。2日間、外でガンガン作業した。ただ、2日で5時間程度だったが。これはなにかのかたちで発表することになるだろう。少なくとも一部として。いろいろな作品の一部として使えるかも知れないとも思っている。
ある意味作品らしくない物だが、そのことで逆に作品として際立ってくる、とか今考えたのだが、そんなものかもしれないと自画自賛している。作品の一部にしかならないようで、それなりに自立した作品にもなると思いはじめている。
ある意味作品らしくない物だが、そのことで逆に作品として際立ってくる、とか今考えたのだが、そんなものかもしれないと自画自賛している。作品の一部にしかならないようで、それなりに自立した作品にもなると思いはじめている。
鉄 ― 2005年07月02日 15:13
久しぶりの制作で使った素材は鉄。もらった鉄板が結構錆びてきたものを使った。ちゃんと彫刻をつくろうと構想を持って切断、溶接をそれなりにやったのは初めて。面白い。
鉄を使うのは、手に入っていたから。手に入りやすかったから。
彫刻用の素材らしいものは、まあ、さすがにいいのだけれど、ちょっと面白くない。彫刻用の技法も、きっといいのだろうけれど、あまり学ばなかった。
鉄を使う時には、日曜大工の、それも低レベルの技術で扱う。その程度しかできないのだ。ほぼ初めてだし、しょうがないのだ。材料はホーマックで売っていない少しだけ厚めの鋼板で、日曜大工用と言うよりはいちおう工業用というか工作用というか。現代彫刻ではベーシックな材料なのだろうが(ただし、普通はもっと耐久性のある種類の鋼板を使うだろうが)、工作用の材質、技術のつもりで使う。いや、違うかな。いちおう美術の専門教育を受けているので、マチエルや素材感、質感を気にしている。
しかし、鉄が建築や、工業用材料であること、人類が道具として、つかいつづけた、道具によって加工しつつつかいつづけた物質であることが、まあ、いちおう重要だ。人類にとって金属と言えば、まずは鉄だ。リッチなものではない。
面白いし、アイデアも浮かぶので、どんどん鉄を使うことになりそうだ。ただしあてにはならない。なにしろ3ヶ月ぶりの製作だったのだ。
鉄を使うのは、手に入っていたから。手に入りやすかったから。
彫刻用の素材らしいものは、まあ、さすがにいいのだけれど、ちょっと面白くない。彫刻用の技法も、きっといいのだろうけれど、あまり学ばなかった。
鉄を使う時には、日曜大工の、それも低レベルの技術で扱う。その程度しかできないのだ。ほぼ初めてだし、しょうがないのだ。材料はホーマックで売っていない少しだけ厚めの鋼板で、日曜大工用と言うよりはいちおう工業用というか工作用というか。現代彫刻ではベーシックな材料なのだろうが(ただし、普通はもっと耐久性のある種類の鋼板を使うだろうが)、工作用の材質、技術のつもりで使う。いや、違うかな。いちおう美術の専門教育を受けているので、マチエルや素材感、質感を気にしている。
しかし、鉄が建築や、工業用材料であること、人類が道具として、つかいつづけた、道具によって加工しつつつかいつづけた物質であることが、まあ、いちおう重要だ。人類にとって金属と言えば、まずは鉄だ。リッチなものではない。
面白いし、アイデアも浮かぶので、どんどん鉄を使うことになりそうだ。ただしあてにはならない。なにしろ3ヶ月ぶりの製作だったのだ。
マンホール ― 2005年07月02日 16:09
市民公園の起伏のある芝(雑草?)の生えた場所のマンホールがちょっと気に入った。公園のデザイナー(?)はしょうがなくあそこに置いたのだろうが。
起伏のある公園の、草地に点在させるように本当のマンホールではなく、コンクリートの丸い板を設置するという景観デザイン案(?)を考えて一人悦に入る。どの程度地面に食い込むかなどがポイント。
起伏のある公園の、草地に点在させるように本当のマンホールではなく、コンクリートの丸い板を設置するという景観デザイン案(?)を考えて一人悦に入る。どの程度地面に食い込むかなどがポイント。
芸術と才能2 ― 2005年07月06日 16:07
才能などと言うものは、たとえば、あったとして、それを誇示するかのように使われた場合には、作られた作品の魅力を損なうことになる。そのように才能に引きずられないのも才能・・・か?
「ろくな才能もないのに、恥ずかしげもなく人前に作品を」というようなことは、一瞬ありそうな気がするが、いやな感じがする。いやなだけではなく、言葉としても間違っているだろう。例えばデッサン力に乏しいひとが面白い作品をつくれないことはない。自分の能力を量り見極め、何ができるかを考え抜いて何かを作ったのであれば、きっと面白いものになるに違いない。恥ずかしいのはたとえば自分が特権的だと勘違いしているようなことだ。人前で見せるということで何が起こるか量ろうともしていないことだ。
おや、私こそ危ないぞ。
才能に意味があるとすれば「絵がうまい」とかいうことではなく生き方のようなことに関する才能かも知れないと思うが、それなら才能がどうのこうのという話しではないかも知れず、とすれば私は意味のない話をたちあげたということか。
「ろくな才能もないのに、恥ずかしげもなく人前に作品を」というようなことは、一瞬ありそうな気がするが、いやな感じがする。いやなだけではなく、言葉としても間違っているだろう。例えばデッサン力に乏しいひとが面白い作品をつくれないことはない。自分の能力を量り見極め、何ができるかを考え抜いて何かを作ったのであれば、きっと面白いものになるに違いない。恥ずかしいのはたとえば自分が特権的だと勘違いしているようなことだ。人前で見せるということで何が起こるか量ろうともしていないことだ。
おや、私こそ危ないぞ。
才能に意味があるとすれば「絵がうまい」とかいうことではなく生き方のようなことに関する才能かも知れないと思うが、それなら才能がどうのこうのという話しではないかも知れず、とすれば私は意味のない話をたちあげたということか。
デザイン・建築の深い闇 ― 2005年07月06日 20:43
デザインということばを、ちょっと表層的ではなく使おうとした途端、足元はずぶずぶとぬかるみにはまり込む。
私はかたちを考える面白さからデザインに興味を持ち始めた・・・デザインされたかたちの面白さが、もっと先か。だから一般的に使われている「デザインがいい」という言い方の時に、かたちの良さがまず忘れられることはないことは、都合がいい。
ただ、かたちのよいだけのものには、「デザインがいい」などとは、私自身は決して使わないつもりではある・・・ほんとうか。ちょっと自信はないが。だから、もし格好がいいだけのものをデザインがいいと称揚するようなひとと話すことがもしあれば、「でも、実用的じゃないよね」などと少しは難癖をつけてやりたいと思ったが、幸か不幸か、そんな場面はなかったようだ。そんな知り合いは、思いあたらない。
デザインするという言葉が、そのくらいには、かたちを美しくすることだけではないという感じは誰しも持っているかもしれない。ただ、かたちの美しさがやはり前面に出てしまいがちなことは否めない。そして、そのことにちょっとひっかかると、つい、美とはなにか、用の美とかなんとかしゃらくせえ、ああなにかくちはばったい、ということになる。
また、デザインということを考える時には、単に日常的なスケールだけでものを考え得ない、と、そんな事が引っかかってくる。逆に、非日常的なスケールだけでもだめだ。
実際にはデザインということを考えるひと、仕事にしているひとの多くはデザインの要素のごく限られた一面についてのみ注目し、たとえばつかいやすいものの美しさについて語りはするものの、そのことでかなり多くのこと、デザインに関連することすべてをを語ったような気持ちになっているようなことになる。不便で醜い優れたデザインもあるはずだ。それは醜いが美しいと言った逆説的な言い方では美しくなってしまいはするものの。
ひとつは、高価なものはそれだけでデザインとして劣っていると考えることができる場合がある。ある場合には流通過程、各流通過程での価格設定までをデザインしてようやく本質的なデザインの完了、と、いう事さえ可能だ。医薬品はいかに服用しやすい新技術等をもりこもうが、価格が高すぎるならデザインとして優れていることにはならないだろう。例えば、エイズ患者のための薬ほど、その意味でデザインの質の低いものはないともいえる。増え続けるエイズ患者が購入できる価格ではない。
現在の職能分担ではデザイナーの仕事ではない要素にもデザインは関わっている。製品の特性に見合ったパッケージを考えることくらいが、デザイナー、呼び方としてはグラフィックデザイナーにまかせられるくらいだが、それは一面だ。
建築について考えるとき、そのような意味でのデザインの最後進分野ともいえる深大な闇を見つけることができる。
いつからか、日本の住宅は高価で使いにくく、醜い。家を建てると言うことは、また、自然破壊に寄与することでもある。流通に関しても、選択する技術に関しても、自然との関わり方にしても、現代の科学水準からして不合理極まりないだろう。その程度もつい最近まで悪化し続けてきた一分野だったのではないか。なんらかの技術革新はそれが利益を増大させる場合にのみ採用され、安価で機能的なものは退けられてきたのではないかという懸念すらある。
価格に関していえば、生活費の大きな割合を占めるほどに高価な住宅を手に入れるための労働というのは、はたして合理的な選択なのかという疑いがある。創造性を発揮しつづける仕事は楽しいだろう。それによって大きな利益を生み、高価な住宅に投資するのはいいだろう。実際には創造性を摩耗させる種の仕事が多い。おおくの仕事をそうでなくする試みが、ないわけではないが、それが成功しているとは思えない。そのような仕事をよりよく進めるために、実は爆発的ではないにしても、創造性が求められるのでははないか。そのための余暇を、生活の中に取り入れるに相応しい、日本の家だろうか。
日本の家の価格にはどれほどの、そしてどのような種類の必然性があるのだろう。
・・・乱暴な論だ。根拠は例示できない。曖昧な記憶から直感的に導き出した言葉だ。ただ、言い過ぎの部分はあるにしても、この手の不合理が放置され、あるいは困難な問題として近づきがたいこととされていることは事実ではないかと思う。建築家は、このような問題に近づく時に闇を見るのではないか。この闇を正面から見ることは世間をひっくり返すような天才でなければ無駄なことかもしれない。それを少なくとも横目に見つつ、優れた仕事をしている人もいるだろう。
ただ、変な話しだが、これらは日本に顕著な話しだと思う。政治と、文化的な問題が関わってくる。「産業界」とやらのことをとりあえず忘れたいが、そうしては話が進まないかも知れない。
と、美術家であろうとする人間が考えることにどれ程の意味があるのか知らないが。
私はかたちを考える面白さからデザインに興味を持ち始めた・・・デザインされたかたちの面白さが、もっと先か。だから一般的に使われている「デザインがいい」という言い方の時に、かたちの良さがまず忘れられることはないことは、都合がいい。
ただ、かたちのよいだけのものには、「デザインがいい」などとは、私自身は決して使わないつもりではある・・・ほんとうか。ちょっと自信はないが。だから、もし格好がいいだけのものをデザインがいいと称揚するようなひとと話すことがもしあれば、「でも、実用的じゃないよね」などと少しは難癖をつけてやりたいと思ったが、幸か不幸か、そんな場面はなかったようだ。そんな知り合いは、思いあたらない。
デザインするという言葉が、そのくらいには、かたちを美しくすることだけではないという感じは誰しも持っているかもしれない。ただ、かたちの美しさがやはり前面に出てしまいがちなことは否めない。そして、そのことにちょっとひっかかると、つい、美とはなにか、用の美とかなんとかしゃらくせえ、ああなにかくちはばったい、ということになる。
また、デザインということを考える時には、単に日常的なスケールだけでものを考え得ない、と、そんな事が引っかかってくる。逆に、非日常的なスケールだけでもだめだ。
実際にはデザインということを考えるひと、仕事にしているひとの多くはデザインの要素のごく限られた一面についてのみ注目し、たとえばつかいやすいものの美しさについて語りはするものの、そのことでかなり多くのこと、デザインに関連することすべてをを語ったような気持ちになっているようなことになる。不便で醜い優れたデザインもあるはずだ。それは醜いが美しいと言った逆説的な言い方では美しくなってしまいはするものの。
ひとつは、高価なものはそれだけでデザインとして劣っていると考えることができる場合がある。ある場合には流通過程、各流通過程での価格設定までをデザインしてようやく本質的なデザインの完了、と、いう事さえ可能だ。医薬品はいかに服用しやすい新技術等をもりこもうが、価格が高すぎるならデザインとして優れていることにはならないだろう。例えば、エイズ患者のための薬ほど、その意味でデザインの質の低いものはないともいえる。増え続けるエイズ患者が購入できる価格ではない。
現在の職能分担ではデザイナーの仕事ではない要素にもデザインは関わっている。製品の特性に見合ったパッケージを考えることくらいが、デザイナー、呼び方としてはグラフィックデザイナーにまかせられるくらいだが、それは一面だ。
建築について考えるとき、そのような意味でのデザインの最後進分野ともいえる深大な闇を見つけることができる。
いつからか、日本の住宅は高価で使いにくく、醜い。家を建てると言うことは、また、自然破壊に寄与することでもある。流通に関しても、選択する技術に関しても、自然との関わり方にしても、現代の科学水準からして不合理極まりないだろう。その程度もつい最近まで悪化し続けてきた一分野だったのではないか。なんらかの技術革新はそれが利益を増大させる場合にのみ採用され、安価で機能的なものは退けられてきたのではないかという懸念すらある。
価格に関していえば、生活費の大きな割合を占めるほどに高価な住宅を手に入れるための労働というのは、はたして合理的な選択なのかという疑いがある。創造性を発揮しつづける仕事は楽しいだろう。それによって大きな利益を生み、高価な住宅に投資するのはいいだろう。実際には創造性を摩耗させる種の仕事が多い。おおくの仕事をそうでなくする試みが、ないわけではないが、それが成功しているとは思えない。そのような仕事をよりよく進めるために、実は爆発的ではないにしても、創造性が求められるのでははないか。そのための余暇を、生活の中に取り入れるに相応しい、日本の家だろうか。
日本の家の価格にはどれほどの、そしてどのような種類の必然性があるのだろう。
・・・乱暴な論だ。根拠は例示できない。曖昧な記憶から直感的に導き出した言葉だ。ただ、言い過ぎの部分はあるにしても、この手の不合理が放置され、あるいは困難な問題として近づきがたいこととされていることは事実ではないかと思う。建築家は、このような問題に近づく時に闇を見るのではないか。この闇を正面から見ることは世間をひっくり返すような天才でなければ無駄なことかもしれない。それを少なくとも横目に見つつ、優れた仕事をしている人もいるだろう。
ただ、変な話しだが、これらは日本に顕著な話しだと思う。政治と、文化的な問題が関わってくる。「産業界」とやらのことをとりあえず忘れたいが、そうしては話が進まないかも知れない。
と、美術家であろうとする人間が考えることにどれ程の意味があるのか知らないが。
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